kana

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岩手の方々にヨガの奥深い魅力を伝えていきたく、フリーヨガインストラクターとして活動しております、kanaです*

現在は主に出張ヨガや、パーソナルヨガで活動中。

個人レッスンでは
滝沢の自宅や会議室でのプライベート空間の中
お一人お一人と向き合う時間を大切にしております。

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プロフィール

学生時代から食や健康に関心が高く様々な情報を取り入れより良い生き方を求め続けてきたが、元々運動が嫌いで無理なダイエットを繰り返す日々

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ヨガで大切にしていること

私はよくヨガで大切なことは「内観をすること」と言います*”ヨガという時間“を意図的に”日常と少し距離をおく時間“にする。普段あれこれ考えなければならないこと、気にしてること、何者かでいなくてはならないこと、それらを一旦「この時間だけは何にもとらわれなくていいんだよ〜」って決める。OKを出してあげる意識が大切だと私は思っています。そして’私”という様々な感覚(思考、感情、記憶など)を“本当の私と少し距離を置く”ことで密着していたものを切り離し観察する、ということをしたいのです。私たちは普段何億回も思考を繰り返したり感情を感じたり幼少期からいろんな出来事を経験して今の感性や性格ができていると思います。より良く生きるためにたくさんのラベルを張り・良い子にしていないと愛されない・本音を言ったら嫌われるから言ってはいけない・努力をしていないと認められない・いい人でいないといけない……etc 様々なカテゴリーでの役割を背負っています。・自分は父(母)である・息子(娘)である・夫(妻)である・会社では上司(部下)である・恋人の前では彼氏(彼女)である・友達の前では色んなキャラがある……etcそこから更に色んな感情が巡りますね。・親に小言を言われると無性に腹が立つ・子供が言うことを聞かずに泣き叫ばれるとこっちが泣きたくなる・夫に言いたくても言えない事があり胸が詰まる・会社では頑張っているのにミスをして落ち込む・友達と自分とのギャップにジェラシーを感じる…etcあたかもこれらが瞬間、瞬間“私“として存在して、この全てが“私“だと勘違いしてしまいがちなのですがこれらラベルも、カテゴリーの立場も、感情も、”私”が、”所有”しているものにすぎません。その所有しているものを俯瞰するように、二階から見下ろすように客観視しているのが本当の”私”です。だから、ヨガの時間で集中できない時ほど、内観のチャンスだと思っています。

私を初めて先生と呼んでくれた人

やっとタイ洞窟の少年たちが救出されましたね。このニュースを目にした時はそれはびっくりしてチェンライといえば私が人生ではじめて1人で訪れた場所。街の人たちはいっつも笑顔で、アシュラム(一ヶ月過ごした合宿みたいなところ)のスタッフたちやバスの運転手のおじさん、タイマッサージのお姉さん、トイレの使い方を教えてくれたお姉さん、みんな裕福ではないけどいつもニコニコしててすこぶる優しかった。本当に今回のニュースは無事に救出されるまで勝手に親近感で気にしていた。当事者たちはどんな精神状態だったのか。。「マインドフルネス」「瞑想」とメディアでは取り上げられているけれど誤解してほしくないのは簡単に食いつきやすい“メゾット”ではなく日頃の、地味で静かな己しかわからないような領域の努力が今回の助けになったと思う。そんな今回の一件から思い出した、1人の男の子の話。...それは、タイでのティーチャートレーニングの帰りの飛行機での出来事。北部チェンライから、バンコクまでの道のりの中、私は窓際の席。やっと下界(笑)に戻る途中でなんだかまだ現実感がない私。これから日本に帰るんだな〜と人ごとのように感じていました。そして隣には小学1年生ほどの中国人の男の子が。彼は私にひっきりなしに話かけてくる。「どこから来たの?」「英語喋れる?」私は持ち合わせの数少ない単語で返事をする。どうやら少年はタイのインターナショナルスクールから母国へ帰るところのようでした。「日本は行ったことがないんだ」「でも北海道出身の友人がいるよ」「横に座っているのがお兄ちやん、あれがお父さん、お母さん」と、色んなことを教えてくれた。(離陸時に写メをとろうとしてスマホを窓に向けると、機内では電源を切って!とおこられた。笑)そして、会話をしていると彼はお腹が空いたと、お菓子を出して「食べる?」と私にもくれた。そこで私は衝撃をうける。そのお菓子、他の席の兄弟にも分けて、最後ひとつ余ったものを、大人の私に「食べて」とくれたのです。小学1年生ほどの男の子です。そこに、大人にお菓子を譲る姿勢にどんな教えがあったのかはわからないけれど義理でもなく、大人に褒められるためでなく彼がそう“選択した”という事実。私が子供の頃を思い出すとお菓子ほどのご褒美はなくて私だったらどうしていたかと思うと恥ずかしくなる。もう、感動して「ありがとう!!」とハグしたくなったけれど「お腹が一杯なの。食べてね。ありがとう」と言うと嬉しそうに子供の顔で頬張っていた。タイの洞窟の少年たちも、もしかしたらこんな暖かい精神のなかで共に励ましあっていたのではないかな、って勝手に感じています。(ニュースあまり見ないから報道と違ったらごめんなさい)余談で、私のことを「先生」と一番最初に呼んでくれたのはこの少年。正直、この時は膨大な一ヶ月の経験のあとで私はインストラクターになることを悩んでいたし、どちらかというと「私には無理」という諦めも強かったことも覚えている。

ちょっと笑っちゃう話2

続き。そんなこんなで私はこの本で毎晩NYに旅をしている気分になったりして気軽に英語が使えたらな〜って気持ちで毎日ひと単語学んでいます。でも、ネイティブが使うマイナーなフレーズが楽しくて、きっと私が旅行とかで使わないであろう単語なのですが(笑)例えば、この本の中で作者が飛行機でどの乗客に対しても「スィーティー、何を飲みますか?」と尋ねる客室乗務員の女性に出会ったそう。この「スィーティー」というのは、親しみを込めた呼び方のようで、親が可愛い子供に対して使ったりするのだそう。そんな呼び方を、いかつい黒人の乗客にも、どのお客様にも呼びかける乗務員。思わず笑みがこぼれてしまうという素敵なエピソードだった。「そうなんだ、可愛い子にはスィーティーって呼ぶんだな」そんなレベルで一日ひと単語目標にインプットしている。(↑もはや単語と呼べない)この他にも、NYではカフェで相席になったひとに気軽に「トイレに行くから、荷物を見ていてくれる?」なんてお願いをしたり、地下鉄で本を読んでいると「その本、僕も読んだよ!面白いよね」という会話があって、そこから会話に花が咲いたりするんですって。いつか、私もそんなフレンドリーな海外の魔法にかかってみたいなと夢をみる。そして、そんなことを思いながら先月、ヨガの勉強を受けに仙台へ行ったときの話。一日の朝から晩までの講座で、ヘトヘトになった私は帰り道に仙台駅で一人ご飯をしていこうと思い、たまたまディスプレイしてあった美味しそうなハンバーグ定食が目について、即決でお店へ。中は日曜の夜ということもあって賑やかで、ちょうど真ん中の席へ案内され、すぐに入り口で見たハンバーグ定食を注文。程よい疲れと、眠気と、とってもいい学びの時間だったのでまだ余韻に浸っていて、ふわふわしていた。ガヤガヤしている中で、せわしなくご飯を食べたくなかったので、イヤホンをして、テキストを読み返しながら過ごす。やっときた定食を前に静かにいただきます、と呟いて食べ始めると隣の席の、食事を終えてコーヒーを飲んでいた気品のあるご夫婦のマダムに話しかけられた。「あら、美味しそうね」って。今考えても、私イヤホンしていたのによくその話しかけられた声をキャッチしたな、って不思議でならない。急いでイヤホンを外して振り向くと、「色とりどりで、綺麗ね〜!」って、満面の笑みで私を見ている。

自分を知る

自分を被害者にしているのは自分自身。被害者の信念がある限り「わたし」を救うことはできない。どんなポジティブシンキングをしたって自分の素直な感情や心を置き去りにしていたら自分に蓋をしているだけだから。あの人のせいあの人は私を認めてくれないあの人は私を好いてくれないあの人とは分かり合えないそれは“あの人“や“現実“の問題ではなくて「私は認められない」「私は嫌われる」「私は愛されない」「私は分かり合えない」という心の底にある信念。フォーカスするのはいつだって自分。現実を感じとるのはいつだってあなたの心だよ。環境を変えても昔から何故か同じようなパターンが起こるのも、同じような職場の関係にあたったり恋愛、友人関係もあなたの心がそう見ている現実の結果。現実を変えようと努力するんじゃなくて、起こる現実を誰かを憎んだり、諦めたり、我慢するんじゃなくてあなたの心を見てあげて。握りしめている「深い信念」に気がついてあげて。自分を知ってあげて。そうしたら誰のせいにも出来なくなるから。そっか、そっかって。苦しかったよねって。認められたかったね嫌われたくなかったね愛されたかったね分かり合いたかったねそれを見てあげて認めてあげてどんな信念を、どんなラベルを今まで生きてきた中で貼ってきた?過去のどんな出来事が、あなたのラベルを作りあげた?

願いの根っこ

最近、鳥肌が立つくらい毎日いろんな事が起こって発見や気づきに繋がる。色んなご縁や出逢いも。私は変わらないんだけど、ここに居るだけなんだけど、環境というか周りがすんごい加速している。そしてホワンと願った想いが思いもよらない形で次々現実化していく。プライベートも仕事もヨガも。本気で“純粋な願い“ってほんとに叶うんだな。って凄い冷静に感じている。本気の“やりたい事“とかね。巷で話題の自己啓発とか、スピリチュアルとか、引き寄せとか、そうゆう、なんちゃらメゾット的な感じじゃなくて欲に無欲で想いが本物で自分と向き合ってやりたいこと素直にやってたら自分が一番幸せで見える世界も変わる、って単純なことだった。それがまた前と違う感覚で腑に落ちた。私はただ自分に正直にこれからも好きな事を選択していきたいと思うよ。::なんだかんだヨガしながらもやっぱり「人にどう思われるか」って手放しずらかった。正直。あらゆる評価世間の目散々、頭で理解して、分かったつもりでいたけど。その太い太い根っこは頑丈だった。こんな事思われるんじゃないかって考えると色んな選択怖かったよ。↑うわ〜、言えた〜!(笑)やーーっとやっと本当の意味で根っこから自分に花丸出して、自分を生きることの心地よさを知った*ヨガと出会うまでと出会ってからとそしてこの数ヶ月とまるで違う人の人生を歩んでたような気分。勝手に抱いていた不安も蓋を開けたらみんな優しかった。むしろこんな私のぶっ飛んでる色んなこと応援してくれる。泣いてくれる人がいる。会いに来てくれる人がいる。人生、思ってたより何百倍も楽しいよー!!って、過去の自分に報告したい。みんなも、一緒に楽しもう?一回きりだよ、今は!!……って、私はやっぱり「シェア」をしたいんだ。「分け与える」とも違くて、「教える」も違くて、シェアなんだなぁ。幸せとか、いいと思ったもの、喜びとか、感動とか美味しいとか気持ちいいとかヨガとかね。1人じゃなくて共有したいって思うから。だってひとりで笑ってたって自分の顔は見えないからね。目の前の人の、笑顔が見たいな。それが私の願いの根っこ。だから一緒に笑ってたい。みんなで、見せ合いっこ、していこー!!

〜思い込み〜

「思い込み」の力はすごいな。と、1年の振り返りを超えて今まで生きてきた道のりを思い返して強く思っている今日この頃。 自分で“真実”を作ってしまうから。事実はもしかしたら違うかもしれないのに、 そう「思い込む」ことで疑いもせずに、自分の中では真実として、そして現実として、そこに存在してしまうんだもん。そう考えると、人ってどれほどの思い込みで生きているんだろう??正しいとか、間違いとか答えって、あるようで無い。 社会に対しての思い込みも 相手に対しての思い込みも 自分に対しての思い込みも  「それ」が、突然ひっくり返ったときに頑なにずっと持ち続けていた自分の「思い込み」に呆気を取られて笑っちゃう。 外の世界は何ら変わりないのに「それ」に「気が付いた」時に目にしていた世界が一瞬にして変わってしまう。 「良い人」も「苦手な人」も 「好きな人」も「嫌いな人」も 「尊敬している人」も「興味すらない人」も 「この人はこういう人」「この場所はこういう場所」も 思い込みのうちの一つだったり  小さな池の中を、そこが自分の全世界に感じていることだってある。 そう考えると、自分のキャパだって その思い込みの色眼鏡に気がつくと 誰でもなく、自分が制限をかけていることに気づいたりする。